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曽野綾子

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経歴

曽野 綾子(その あやこ、1931年(昭和6年)9月17日 - )は、日本の小説家。日本財団会長、日本郵政取締役を務めた。日本芸術院会員。文化功労者。
「曾野 綾子」とも表記される。本名は三浦 知壽子(旧姓:町田)。夫は三浦朱門。カトリック教徒で、洗礼名はマリア・エリザベト。
聖心女子大学文学部英文科卒業。『遠来の客たち』が芥川賞候補に挙げられ、出世作となった。以後、宗教、社会問題などをテーマに幅広く執筆活動を展開。エッセイ『誰のために愛するか』はじめベストセラーは数多い。近年は生き方や老い方をテーマとしたエッセイが多く、人気を集めている。保守的論者としても知られる。
東京府南葛飾郡本田町(現・葛飾区立石)に父・町田英治郎、母・キワの二女として生まれる。幽里香という姉がいたが、曽野が生まれる8年前に亡くなっており、一人娘として成長。 1934年、大森区田園調布に移る(以後、三浦朱門と結婚後も同所に居住)。 母親の希望により幼稚園から大学まで聖心女子学院に通う。敗戦前後の10ヶ月ほど金沢に疎開し、金沢第二高等女学校(現・石川県立金沢桜丘高等学校)に転校。勤労動員令が下り、平野化学工場に配属される。1946年3月、東京に戻り聖心に復学する。一人娘ゆえ、小学校より親の知人の次男が婿養子に決まっており、一流大学出の秀才であったが、中学の頃に破談となっている。曽野本人の意に沿わぬ相手だったのが理由だが、父親が病気治療で退社し、家勢が衰えたことも大きな要因だった。戦後、父親は姻戚(義弟・山口堅吉)を頼り、米軍に接収された箱根宮ノ下の富士屋ホテルの支配人となる(妻子を田園調布に置いての単身赴任だった。山口は最後のオーナー経営者)。芥川賞候補作「遠来の客たち」の舞台となる米軍接収の箱根山ホテルはここをモデルとしており、実際に曽野は1948年の夏、ここに滞在してアルバイトまがいの手伝いをしていた。同年9月26日、洗礼をうける。
中河与一主宰の同人誌『ラマンチャ』(1951年5月)に載った「裾野」が臼井吉見の目にとまり、臼井の紹介で現在の夫・三浦朱門や阪田寛夫らの第十五次『新思潮』に加わる。朝日放送に入社した阪田の伝手もあり、同人誌発行資金獲得のため同社にコントを投稿し数編採用される。「鰊漁場の図」(新思潮5号)、「田崎と鶴代」(新思潮6号)、「片隅の戦士」(世界8・9月合併号)と発表し、22歳で文学的アドバイザーでもあった三浦と結婚。山川方夫の紹介で『三田文学』に書いた「遠来の客たち」が芥川賞候補となり23歳で文壇デビュー。以後、次々に作品を発表。30代で不眠症に苦しむが、『弥勒』『無名碑』など新しい方向性にチャレンジするうち克服した。
大学の後輩である上皇后美智子とは親交が深く、三浦の生前から夫婦ぐるみで親しかった。上皇后(天皇)夫妻が葉山で静養する折、夫妻で三浦半島の曽野の別荘を訪問することも多い。
文化人類学者の三浦太郎は長男で、彼をモデルにして『太郎物語』を執筆した。太郎の妻はエッセイストの三浦暁子。
1995年から2005年まで日本財団会長職を務め。2000年、元ペルー大統領のアルベルト・フジモリ(1992年のアウトゴルペで失脚)が日本に長期滞在した折、自宅に私人として受け入れた。
今日に至るまで多数のベストセラーを著しており、代表的なものに『誰のために愛するか』(1970年、278万部)、『人間にとって成熟とは何か』(2013年、80万部)、『人間の分際』(2015年、30万部)、『夫の後始末』(2017年、20万部)などがある。

受賞歴

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