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辻原登

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経歴

辻原 登(つじはら のぼる、1945年12月15日 - )は、日本の小説家。和歌山県印南町出身。日本芸術院会員、文化功労者。神奈川近代文学館前館長。
十代から小説を書きはじめ、文化学院で桂芳久に学ぶ。21歳で文藝賞(河出書房)佳作に選ばれるが、その後は中国貿易の仕事に就きたびたび現地に赴く。1985年、「文學界」に発表した「犬かけて」で作家デビューを果たし、1990年、44歳の時に「村の名前」で芥川賞を受賞する。
主な作品は、『翔べ麒麟』(読売文学賞)、『遊動亭円木』(谷崎潤一郎賞)、『枯葉の中の青い炎』(川端康成文学賞)、『許されざる者』(毎日芸術賞)、『闇の奥』(芸術選奨)、『冬の旅』(伊藤整文学賞受賞)。その作品世界は、19世紀ヨーロッパ小説を意識した物語性に、独自の幻想性と緻密な構成を備え、長い雌伏期に培われた文学への想いと、物語ることそのものへの傾倒が随所にうかがえる。読売文学賞、大佛次郎賞などの選考委員も務める。
1945年和歌山県日高郡切目村(現在の印南町)に父・村上六三、母・絹子の次男として生まれる。兄弟は1歳半で亡くなった兄のほかに弟がいる。
切目は熊野三山の入り口に位置する村。南の岬が切目崎で、悲劇の皇子として知られる有間皇子がここで挽歌を詠んだ。村には梛(なぎ)を神木とする切目王子神社がある。切目王子神社は熊野古道九十九王子の中で特に格式の高い五体王子のひとつ。
父・村上六三(1916-1970)は和歌山師範を卒業し、戦前戦中は上海の日本人学校で教鞭を執った。戦争末期に帰国し、戦後は日高郡内の山間の小学校の校長となり、日教組(日本教職員組合)執行部に入って活動するようになった。1955年に日本社会党の和歌山県議会議員となり、日中友好協会の運営にも携わる。1957年には中国経由で北朝鮮へ入る友好使節団に加わり、北京では団員のひとりとして、毛沢東、周恩来、平壌で金日成と会談した。1968年、県議会議員4期目半ばで参議院議員通常選挙和歌山県選挙区に出馬するも落選。その後日中友好運動と山岸会の活動に専念した。
辻原の幼年時代の一番初めの記憶は父が校長を務めた山間の小学校の教室や職員室で遊んだ3、4歳のころのもの。5歳で父の郷里・切目村に移り住む。この海辺の村で少年時代を過ごし、浜野球とチャンバラごっこに興じた。映画狂で隣町の田辺の5つの映画館に通う。
1958年、村の外に出たいという思いが強くなり、地元の中学には進まず、自分の希望で受験した和歌山大学教育学部附属中学校に入学。和歌山市内の知人の家に下宿した。「チボー家の人々」を読む。小説を書くようにもなり、家出も経験する。
1961年、大阪学芸大学附属高等学校(現・大阪教育大学附属高等学校天王寺校舎)に入学し、大阪に下宿。17歳の時、映画監督になることを目指し夜行列車で東京へ。父が政治活動でライバルとした辻原弘市議員の家に転がり込むも、家からの迎えに連れられ戻る。高校時代はサルトルの影響を受け、同志社大学の鶴見俊輔研究室に通い家の会に参加した後年、この行動について「ユートピアに興味があって」と語っている。。
1964年春、大阪学芸大学附属高等学校を卒業し上京。大学受験より小説修行を選び、和歌山県新宮出身の西村伊作が創立した文化学院に通い、文科で桂芳久に師事した。三田と文化学院の同人誌「第二次文学共和国」に参加。同人には詩人の井上輝夫もいた。神楽坂に下宿し、高校の友人が入っていた和敬塾に入り浸る。
1967年3月文化学院を卒業。本名・村上博で応募した「ミチオ・カンタービレ」が文藝賞(河出書房)佳作に選ばれる。選考委員の小島信夫、吉行淳之介に評価されるものの、江藤淳からは「これは単にフランスのアンチ・ロマンの物真似に過ぎない」と酷評され雑誌不掲載となる。同じく佳作に選ばれた福永令三は、後に「クレヨン王国」を書いた童話作家。この文藝賞事件以降しばらく小説を書くことをやめる。アパートに閉じこもり本を読むことに専念し、アテネフランセに通ったりもした。
1970年、故郷の父が膵臓癌を発病し看病する。翌年父は54歳で死去。そのまま実家で本を読む蟄居生活を送り、小説を書き始める。
1974年、故郷で3年をかけて書き上げた1000枚の小説「千春(せんしゅん)」を携えて上京し、「文藝」編集部に持ち込むが「長すぎる」と没となる。文化学院時代からの友人の市川の家に居候し、職を得るために市ヶ谷にあった中国語研修学校の夜間に2年程通う。
1979年、33歳で日中貿易会社・新天交易に就職し、中国現地で買い付けなどを行いながら北京語をマスターした。芥川賞を受賞した「村の名前」は、畳用の藺草の買い付けのために湖南省・長沙に二か月程逗留した時のメモから生まれた。
辻原が勤めた新天交易は赤坂にあり従業員は5人ほど。日中国交回復前に民間大使として北京に滞在した西園寺公一が興した会社で、社名は周恩来が命名し、中国側の関心が高い会社だった。在職中のある日、西園寺に呼び出され「小説書きはいらん。書き続けるなら辞めてくれ」と通告される。以来会社に知られないようにペンネームを使い、早朝と休日に小説を書いたが、西園寺はそのことをずっと知っていて、芥川賞受賞の時には祝電を送った。
1980年8月、結婚し杉並区上高井戸に住む。2年ほどたったある休日、「物語を書く幸福をつかまなくてどうする」、やはり小説を書かねばと思い立つ。
1985年、「犬かけて」を「文學界」11月号に発表し作家デビューを果たす。「犬かけて」は桂芳久が同誌に紹介し、「文學界」編集長・湯川豊のもとで4、5回書き直した作品。翌年芥川賞候補に挙げられる。
高井戸から横浜市鶴ヶ峰に転居、1986年ころ藤沢市鵠沼東に転居。
1990年3月、作家活動が本格的になったことから、常務取締役営業部長として働いていた新天交易を退社。4月、義兄が経営するコスモ・コンピュータ・ビジネスに転職し、総務部長として大阪本社に勤務。芦屋市に隣接する神戸市東灘区深江南町に住む。芦屋川に近く、最寄り駅は阪神電車の芦屋駅だった。
同年8月、「村の名前」で第103回芥川賞を受賞。丸谷才一は選評で、「われわれの文学の宿題みたいになつてゐるリアリズムからの脱出」を成し遂げたとして絶賛した。
東京で作家活動を行うために、阪神淡路大震災の前年の1994年8月、関西から神奈川県横浜市に移住。横浜支社に移る。
1994年に出版した最初の長編『森林書』を、日野啓三に「現代の奇書」と評され。純文学を狭く追究することに限界を感じるようになり、もっと多くの読者へ向けて新聞小説を書くことを思い立つ。阿倍仲麻呂を主人公とした小説の企画書を新聞各社に送り、読売新聞での連載が決まる。1997年4月から「翔べ麒麟」の連載を開始した。
新聞小説を手掛けるにあたっては、新聞を活躍の舞台とした19世紀ヨーロッパの小説家・バルザックやディケンズ、トルストイ、スタンダール、ま

受賞歴

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