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円地文子

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経歴

円地 文子(えんち ふみこ、1905年(明治38年)10月2日 - 1986年(昭和61年)11月14日)は、日本の小説家。本名:圓地 富美(えんち ふみ)。上田万年二女。戯曲から小説に転じ、『ひもじい月日』で文壇に地位を確立『円地文学における戯曲から小説への転換』。江戸末期の頽廃的な耽美文芸の影響を受け、抑圧された女の業や執念を描いて古典的妖艶美に到達。戦後の女流文壇の第一人者として高く評価された。『源氏物語』の現代語訳でも知られる。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。
1905年10月2日、東京府東京市浅草区向柳原2-3(現・台東区浅草橋)に、父上田万年(38歳)、母鶴子(29歳)の二女として生まれる。本名富美。家族は他に、父方の祖母いね(66歳)、兄寿(8歳)、姉千代(4歳)がおり、さらに女中、書生、兄の乳母、抱え車夫の夫婦などがいた。父万年は東京帝国大学文科大学(後の文学部)国語学教授で、後に現代国語学の基礎の確立者と称される人物である#1。父母共に、歌舞伎や浄瑠璃を好み、幼少期から影響を受けて育った。それらは、江戸時代の頽廃芸術の流れを汲んだもので、「そこに育てられてきたものには性の倒錯も含まれていたと思われる」と後に円地は回想している。
1907年2歳の時に麹町区(現・千代田区)富士見町30に転居、祖母いねから『南総里見八犬伝』や『椿説弓張月』、『偐紫田舎源氏』、浄瑠璃、歌舞伎の台詞などを繰り返し聞かされて育ち、また、江戸下町に伝わる怪談や近世後期の種々の草双紙類の魅力に惹き入れられたことが、後の文学的素地を培った。6歳の時には下谷区(現・台東区)谷中清水町17母方の祖母村上琴が母鶴子名義で買っておいた家。に移った。
1912年4月、東京高等師範学校付属小学校二部(後の筑波大学附属小学校)に入学、当時は珍しかった男女共学のクラス(6年まで)だった。もっとも学校が遠いうえに、身体が弱く、3分の2ほどしか登校しなかったという『現代文学大系 40』|loc=和田知子編「圓地文子年譜」|p=473。5、6年生の頃には『源氏物語』などの古典や谷崎潤一郎の小説を読み始め、歌舞伎にも親しんだ#3。
1918年4月、日本女子大学付属高等女学校(現在の日本女子大学附属高等学校)に入学、変わらず歌舞伎や小説に耽り、谷崎のほか泉鏡花や芥川龍之介、ワイルド、ポーなど物語性の強い作家、特に永井荷風に熱中した。しかし、校風に馴染めず、4年次終了と同時に退学。好きなものを自由に学びたいという希望から、以後は、英語を第一高等学校教授小椋晴次、大和資雄、イギリス人宣教師ミス・ボサンケットに、フランス語を一高教授杉田義雄に、漢文を学習院教授岡田正之に、それぞれ個人教授を受けて結婚前まで勉強し続けた。
1924年5月、慶応義塾ホールで小山内薫の公演を聞いて感銘を受け、戯曲を志すようになる。1926年9月、21歳の時に演劇雑誌『歌舞伎』の一幕物時代喜劇脚本懸賞募集に「ふるさと」が、小山内と岡本綺堂の選で当選(翌月掲載)#6。1927年2月小山内の演劇講座の聴講生となり、同人誌『劇と評論』に幾つか戯曲を書いた#5。1928年7月、長谷川時雨主宰の『女人芸術』発刊披露の会に出席、林芙美子、平林たい子、片岡鉄兵らを知った#4。この年はプロレタリア文学運動の全盛期であり、円地もその影響から一時左翼思想に接近、実践には加わらなかったが、片岡とは親しく交際した。10月『女人芸術』に一幕劇「晩春騒夜」を発表し、徳田秋声の賞賛を得る。小山内にも認められ、早速12月築地小劇場で初演されて北村喜八演出。友田恭介、山本安英、村瀬幸子、滝蓮子出演。好評を博すも、その最終日の25日に、小山内は、上田家(円地文子の実家)が日本橋偕楽園に招いた祝宴の席上で、狭心症のため急逝。円地は衝撃を受ける。後に、この時期の生活は『散文恋愛』『朱を奪うもの』などの自伝的作品に何度も描かれた。その後も、『女人芸術』のほか『新潮』、『文藝春秋』、『火の鳥』などに戯曲を書いた。
1930年3月27日、東京日日新聞の記者円地与四松(34歳)と結婚当時世間的には与四松のほうが有名だった。鎌倉材木座、小石川区(現・文京区)表町109を経て、中野区江古田4-1559に居を構えた。この間の1932年9月12日長女素子素子(2014年死去)の夫は、核物理学者・高エネルギー物理学研究所(KEK 現・高エネルギー加速器研究機構)名誉教授だった冨家和雄(1928-2005)。を出産する『昭和文学全集 12』|loc=和田知子編「円地文子 年譜」|p=1069。1935年4月、寺田寅彦の紹介で処女戯曲集『惜春』が岩波書店より刊行され、小宮豊隆からは好意的な評価を得た『昭和文学全集 12』|loc=竹盛天雄「円地文子・人と作品」|p=1048。同月片岡鉄兵、荒木巍の紹介で、『日暦』同人となり、高見順や大谷藤子、渋川驍、新田潤、矢田津世子、田宮虎彦らを知った#7。以後小説への意欲が強まり、翌年1月には初めての小説となる短篇「社会記事」を同誌に発表。『日暦』同人が武田麟太郎編集の『人民文庫』に合流すると、同誌の同人となり、以来『日暦』『人民文庫』の他、『婦人之友』や『文学界』、『中央公論』、『文学者』などに小説・評論を書き続けた。もっとも、この間小説家としての道は決して平坦なものではなく、不遇時代が長く続いた。1937年、支那事変(日中戦争)が勃発。夫与四松は新聞社を定年前に退職し、同年10月26日には、父万年が直腸癌により死去。翌年4月自身も結核性乳腺炎のために東大病院に入院、手術を受けた。この時期、円地は、多くの売れない女流作家と同様に、少女小説や古典随筆を書いて糊口を凌いだ#8。
1941年1月3日、海軍文芸慰問団の一員として長谷川時雨、尾崎一雄ら十数名と広州方面から海南島を廻って2月11日まで1か月余旅行する。1943年10月、日本文学報国会の一員として朝鮮総督府に招聘され、深田久弥らと北朝鮮に旅行した#1。1945年5月25日、中野の家が空襲に遭い、家財蔵書の一切を焼失。7月軽井沢の別荘に疎開し、同地で終戦を迎えた#1。冬を過ごした後の1946年4月、上京して母が隠居する谷中清水町17番地に戻る。戦後の窮迫生活を乗り越え、文壇に復帰しようとするも、11月子宮癌により東大病院に入院、手術を受けた。手術は成功したものの、患部が化膿し、さらに肺炎を併発、数度生死の境を彷徨い、以来療養は長く続いた。
ところで、戦後の出版ブームによって、この頃円地にも戦前の著作の再版が度々持ち掛けられていた。円地はそれらを全て断っていたが、例外的に、戦時中に刊行した少女小説『朝の花々』の再版(1947年偕成社刊)だけは了承した。それを契機に、経済的理由から当時隆盛だった少女小説野口裕子『円地文子 人と文学』88頁(2010)によると、円地が書いていた「少女小説」とは、「厳正な意味での児童文学ではなく、『大衆小説少女版』とでも呼びたいものだった。」の書下ろしを依頼され、以後数年間のうちに10冊以上書いた。だがそのために、

受賞歴

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