永井 龍男(ながい たつお、1904年(明治37年)5月20日 - 1990年(平成2年)10月12日)は、日本の小説家、随筆家、編集者。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。
俳名、東門居。
懸賞小説に応募した『活版屋の話』(1920年)、『黒い御飯』(1923年)などで菊池寛に推賞される。人情の機微を精緻に描写する短編小説作家として活躍。作品に『朝霧』(1949年)、『風ふたたび』(1951年)など。
東京市神田区猿楽町(現在の東京都千代田区猿楽町)に、父教治郎 - 母ヱツの、四男一女の末子として生まれた。父親は本所割下水の御家人の次男で、永井家に夫婦養子として入り、印刷所の校正係をしていた。兄も欧文植字工、叔父も印刷所勤務と印刷関係者が多い一族。1911年(明治44年)(7歳)、錦華尋常小学校へ入学、1919年(大正8年)(15歳)、一ツ橋高等小学校を卒業。父の病弱のため進学を諦め、米穀取引所仲買店に勤めたが、胸を病み3ヶ月で退職した。同年11月、父没。
1920年(大正9年)(16歳)、文芸誌『サンエス』に投稿した「活版屋の話」が当選。16年年長の選者菊池寛の知遇を得る。1922年帝国劇場の募集脚本に「出産」が当選。1923年(大正12年)、「黒い御飯」が創刊直後の『文藝春秋』誌に掲載。1924年、小林秀雄、石丸重治、河上徹太郎、富永太郎らと同人誌『山繭』を刊行する。
1927年(昭和2年)(23歳)、文藝春秋社に就職を希望し菊池寛社長を訪ね、居合わせた横光利一の口利きにより入社。『手帖』、『創作月刊』、『婦人サロン』の編集につぎつぎに当たった。1932年、『オール讀物』の、次いで『文芸通信』の編集長となった。編集者生活の傍らで創作の発表も続けた。
1934年1月、久保田万太郎夫妻の媒酌により、久米正雄夫人の妹の奧野悦子と結婚。女児2人が生まれた。同年11月、神奈川県鎌倉郡鎌倉町(現在の鎌倉市)に移る。以後転居を度々行ったが鎌倉市で終生居住した。
1935年(31歳)、1月に創設された芥川賞・直木賞の常任理事として3年間両賞の事務を取った。同年3月、母没。1939年、『文藝春秋』誌の編集長、1940年、文藝春秋社の編集局次長となった。
1943年(昭和18年)4月、文藝春秋社取締役。同年11月、満洲国新京市(現在の中国東北部長春市)に単身赴任し、満洲文藝春秋社を設立した。翌年一時帰国し、太平洋戦争末期の混乱のため東京の本社に留まる。1945年3月、文藝春秋社専務取締役となった。
戦後の1945年12月、文藝春秋社に辞表を出し、1946年1月、『新夕刊』を林房雄、小林秀雄らと創刊したが、1947年10月(43歳)、GHQに公職追放され、文筆生活への専念を余儀なくされた。1948年追放解除とともに日比谷出版社取締役社長となり、復活した直木賞を二回同社『文芸読物』で担当するも同社が倒産。以降は雑誌、新聞、週刊誌に、作品を発表した。
1952年(昭和27年)上期から1957(昭和32年)下期まで直木賞選考委員を、1958年(昭和33年)上期から1977年(昭和52年)下期まで芥川賞選考委員を務めた。
1966年(62歳)、『一個 その他』などの文業により日本芸術院賞受賞。1968年、日本芸術院の会員に選任される。1972年、長年の作家活動により第20回菊池寛賞を受賞。
1974年(70歳)、勲二等瑞宝章を受章。1975年には『秋』により第2回川端康成文学賞を受賞した。
1976年(72歳)、村上龍「限りなく透明に近いブルー」への授賞に抗議し選評「老婆心」を提出、芥川賞選考委員辞任を申し出る。日本文学振興会職員に慰留を受け提出選評「老婆心」末尾、菊池寛文章引用部分を削除する。この事件は外に洩れなかった。
1977年(73歳)、池田満寿夫「エーゲ海に捧ぐ」の芥川賞受賞決定に対して、選評で「空虚な痴態」と断じ、前々回での「限りなく」も取り上げ、「前衛的な作品」と述べつつ全否定の見解を述べ委員を退任。
1981年(77歳)、文化勲章受章。翌年にかけ『永井龍男全集』(全12巻)を、講談社より刊行。
1985年(81歳)、開館した鎌倉文学館の初代館長に迎えられる。
1990年(平成2年)10月12日、心筋梗塞により横浜栄労災病院で死去。享年86。戒名は東門居士。東京都港区三田の済海寺の墓域に眠る。
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